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信州善光寺の魅力を4トピックでご紹介

長野県、そして日本を代表するお寺の一つ、信州善光寺。
実に1400年もの歴史をもち日本で最も古い仏像がご本尊として祀られています。
今回はその善光寺の魅力を語るべく、4点のトピックでお話しいたします。

①名だたる戦国武将に求められた本尊
②大災害救済から日本最大の庶民のお寺に
③触れれば誰もが極楽にいける錠前
④性差関係なく誰もが平等にお参りできるお寺

名だたる戦国武将に求められた本尊

善光寺は古くより信仰を集めており平安時代末には東国一の霊所でした。鎌倉時代には源頼朝や北条一族をはじめ豪族たちが善光寺を深く信仰し、戦国時代には歴史に名だたる戦国武将たちがこぞって善光寺とその御本尊を大切にした逸話が残っています。
それは甲斐(現・山梨県)の武田信玄と越後(現・新潟県)の上杉謙信から始まります。彼らは戦国時代(16世紀)、信濃(現・長野県)の領地を獲得するために5回も争いました。これを「川中島の戦い」と言います。

実は、善光寺は当時、川中島の近くにありました。当時、善光寺周辺でも多くの戦いが行われたため、戦火が善光寺に及ぶことを怖れた武田信玄は、弘治元年(1555)に善光寺を甲斐に移しました。その後、武田家が「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍に敗れ滅亡すると、善光寺の御本尊は織田信長の息子・信忠によって岐阜へ移されました。さらに「本能寺の変」で、父・信長とともに信忠が自害すると、信忠の弟・織田信雄が尾張(現・愛知県)に、その翌年には徳川家康が御本尊を浜松へ持っていきます。

その後、戦国時代を制し天下を統一した豊臣秀吉が、京都の方広寺に御本尊を祀ることに決めましたが、慶長三年(1598)に御本尊を信濃の善光寺へと帰しました。
名だたる戦国武将が大切にした善光寺の御本尊は、こうして40年ほどかけて信濃に戻ってきたのです。そして江戸幕府が開いた徳川家康による寄進を受けた善光寺にはさらに多くの人が参拝するようになり、現在に至るのです。

大災害救済から日本最大の庶民のお寺に

善光寺本堂で七年に一度執り行われる「御開帳(居開帳)」。
善光寺の御本尊「一光三尊阿弥陀如来」は白雉5年(654)以来の絶対秘仏のため、その御身代わりとして鎌倉時代に「前立本尊」が造られました。普段は御宝庫に安置されており、この「御開帳」の時だけ特別にお姿を拝むことができます。直近の御開帳(2015年)には約700万人の参拝者が訪れました。
とはいえ、この御開帳は実は江戸時代から。きっかけは江戸時代に起きた日本災害史上最大級の災害「浅間山大噴火」でした。

天明3年(1783)7月8日(旧暦)に起きた浅間山大噴火では約1,500人もの命が奪われました。
この時、善光寺別当・大勧進第80世貫主の等順大僧正は自ら群馬県嬬恋村鎌原の被災地に入り、被災者3,000人に食糧と銭を施し、共に念仏を唱え、被災者に「融通念仏血脈譜」という、極楽へのパスポートとなるお守りを作成して授与しました。翌天明4年(1784)には善光寺で浅間山大噴火追善大法要を実施し、等順大僧正は被災者1,490名全員の名を記した経木塔婆を被災地に送ります。さらに天明5年(1785)、本堂で初めての回向を実施しました。これが本堂で最初に執り行われた御開帳(居開帳)です。

それらを知った全国の庶民たちが「お血脈」を求めて善光寺に参拝に訪れるようになり、180万枚もの「お血脈」を授与した等順大僧正は生き如来とも称されました。そして善光寺は日本屈指の庶民の寺として知れ渡るようになったのです。

触れれば誰もが極楽にいける錠前

善光寺は日本への仏教伝来から期間を経ずに開創した無宗派の寺ですが、現在は天台宗と浄土宗の共同運営によって維持・管理が行われています。善光寺本堂の最奥の御本尊は絶対秘仏なので見ることはできませんが、厨子の置かれた瑠璃檀の床下の回廊をめぐり「極楽の錠前」に触れることで、御本尊とのご縁が結ばれ、極楽に行けることが約束されると信じられています。

この瑠璃檀の床下を巡ることを『お戒壇巡り』と言います。
御本尊の真下を通る真っ暗な通路は真っ暗闇。江戸時代の庶民たちはこの闇中で錠前に触れることで極楽に行ける安心という光を見たのかもしれません。

ところで、極楽は地獄とセットです。あの世(極楽と地獄)への関心は平安時代に高まり、僧・源信は、著書『往生要集』において地獄の世界を描きました。
その世界を絵画化した「地獄絵」も誕生し、江戸時代になると地獄図は多くつくられるように。その結果、庶民にも地獄のイメージが広がります。その中、善光寺の本尊を御参りすれば極楽に行けるとして多くの庶民が善光寺にお参りしたいと願ったのです。

この善光寺への人気が、江戸時代に成立した日本の話芸「落語」にも影響し「お血脈」という演目を生みます。誰もが極楽に行けるということは、誰も地獄に落ちないということ。善光寺への信仰が広がった結果、地獄に落ちる人がいなくなったと閻魔大王が嘆く落語です。当時、それだけ多くの庶民が善光寺を信仰したのです。

性差関係なく誰もが平等にお参りできるお寺

善光寺は国内で仏教が諸宗派に分かれる以前からある寺院であるため、宗派に関わらずにお参りできる寺として信仰されたことも特徴です。「念仏を唱えて一心に祈る者は性別・身分を問わず、誰であっても極楽浄土に導いてくれる」と無差別平等の救済を説いたことから、一度でもお参りをすると極楽往生が約束されると信じられ、江戸時代には「遠くとも一度は参れ善光寺」「一生に一度は善光寺詣り」などの言葉が生まれました。

そして、「誰でも」というのは女性も含みました。
日本ではかつて、宗教修行の地域・霊場など特定の場所への女性の立ち入りを禁止する「女人禁制」という風習がありました。明治5年(1872)に立ち入りを認める政令が出て以降ほとんど廃止となりましたが、江戸時代は女人禁制の風習があり女人禁制を貫いている寺も多かったのです。その中、善光寺は女性の本堂への立ち入りを認めていました。

女性との関わりを伝える言葉に、「牛に引かれて善光寺参り」があります。
これは、信心のない老婆が、さらしていた布を角にかけて走っていく牛を追いかけているうちに善光寺に至り、のち厚く信仰したという説話です。信心のない女性ですら善光寺は信心に導いてくれると信じられたのでしょう。実際、女性の参拝者が多いことも善光寺参りの特徴のひとつでした。
平等に救ってくれるお寺として、身分や年齢、地域そして性別関係なく信仰を集めたからこそ、これらの言葉が生まれたのです。

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